観光スポット 2


   バーン・サオナック
                  観光マップ

   

バーン・サオナックとは、柱の多い家という意味です。


入館時間は、10:00〜17:00。入館料、大人50バーッ(150円)、小人30バーッ。
見物して回ったあと、ここではドリンクのサービスがありました。


   

100年以上前に建てられたチーク材造りの木造家屋です。古い書籍や家具、衣類、食器、骨董品などが展示されている。このぐらいの規模の屋敷だと、使用人は少なくても5、6名はいたのではないかと想像されます。ランパーン市は、この周辺で伐採されたチーク材の集積所として栄えた歴史があるらしいが、この付近にはチーク材を使用した古い立派な家屋が随所に見られました。


右の写真はうちの娘です。今回は、家族4人の他にルンルーン家のジェッ、オームもいっしょでした。


 
床下の空間。
 
古い家並みには、花馬車がよく似合う。

建物の床下も居住空間となっていて、ベッドや豪華なチーク材の応接セットなどが置かれていました。床下は吹き抜けになっていて、涼しい風が吹き渡っています。家屋内と床下のスペースとでは、楽に3度から4度の温度差があります。この屋敷の主人たちも、暑い日中はこの床下で昼寝でもして過ごしたので、と想像されます。


     英雄ティップチャンの像
  

   
英雄ティップチャンの像は、国道の向こう側の
ランパーン市内を睨んでいる。

2008年12月18日、この公園を1年ぶりに訪ねてみると、すっかりきれいに整備されていました。1年前には公園一帯は工事中で、工事をしている男性に、「あれは、キング・メンラーイ?」と銅像を指差して質問すると、「ポー・ティップチャン・カップ(ティップチャンの像です)」という返事が戻ってきた。その丁寧な物言いから、ティップチャンという大英雄がいまだに土地の人々に敬愛されているのをしっかりと感じた。


ティップチャンとは、ビルマ支配からランパーンを解放した人物である。1730年、ランパーン出身の猟師の親玉であったティップチャンが中心になって、反ビルマ勢力が蜂起。3年に渡る長き戦いの末、ビルマ軍がこの町から駆逐されると、彼は功績を認められランパーン国主に任命された。猟師という平民の身分から、ランパーンの最高権力者の地位にまで上りつめたのだ。


近づいて、ティップチャンの像を眺めてみる。ワット・プラケオ・ドーンタオの境内にも彼の像があるが、迫力がまるで違う。こちらの像は力強く生き生きしていて、実際のティップチャンの人となりを彷彿させてくれる。ティップチャンの像は素足にサンダルを履き、戦士のしるしである兜をかぶり、背中に2本の剣を差し、右手に筒の長い銃を握った姿でランパーン市内を睨んでいる。その姿は英雄と言うよりも、ゲリラ活動によってビルマ軍を悩ませた神出鬼没の豪傑といった印象を受けた。
 


    砦跡
  

   

このレンガ造りの塔もバイクを走らせていて偶然発見したのだが、最初目にした時には何の遺跡なのかまったくわからなかった。遺跡の側に書かれている説明書きを写真に撮り、家に帰って妻に読んでもらって、初めて砦跡とわかった。場所は、刑務所の裏側。刑務所とワット・チェータワンのちょうど中間ぐらい。


ビルマ軍の築いたものと言われるこの砦跡が、その当時どのぐらいの規模だったのか、この遺跡から判断するのはむずかしい。いまは砦の一部が残っているだけだが、城壁の高さから相当に大規模なものだったろうことは想像できる。現在は地上に置かれている二門の大砲は、その当時は砦の上部に設置されていて、実際の戦闘に使用されたらしい。


こうやって奇跡的に残った砦跡は、内側に向かっていまにも崩れそうだが、何とか支え合って辛うじて崩壊から免れている。内部には祠があり、仏像が祀られている。祠は、この砦が実際に活躍していた頃の戦死者の霊を鎮めるために築かれたのだろうか。仏像は黙して語らずと言ったところだ。それから、このレンガ造りの遺跡の高さは、この近くにある刑務所の塀よりも高かった。


    城塞都市の跡
    

 
赤線で囲った内側が、ランナータイ王国時代に築かれた城塞都市の跡です。(グーグルアース使用)

  @パトゥー・マー(馬の門)跡

   
復元された城門の上からの眺め。

2009年4月、こちらのほうにも約1年ぶりに行ってみたのですが、パトゥー・マー周辺は建造当時を思わせる城壁が復元され、堀も深く掘り直されていました。ランナータイ王国時代に築かれた当時は、このような城壁と堀がワン川の北側、現在のランパーン市の北東地域をぐるりと取り囲み、城塞都市を形成していたのです。その内側には、ランパーンの主要寺院であるワット・プラケオ・ドーンタオやワット・パトゥーポーンなどがある。観光名所のバーン・サオナックもインサイドに位置している。それに当時は、ランパーン国主の館や高官の屋敷が建ち並んでいたことでしょう。 


この城壁が観光客誘致に一役買ってくれたらありがたいのですが・・・・。以前は堀の中に蓮の群生が見られ、季節になると美しい花々が目を楽しませてくれたのですが、いまは濁った水が淀んでいるだけです。でも来年か再来年頃には、再び蓮の群生が戻ってきてくれることでしょう。

 
1年前のパトゥー・マーはこんな感じでした。
 
堀もほとんど埋まっていました。

  A「馬の門」東側の城壁

  インサイドから撮った写真。外側の堀跡を確認したかったが、道を見つけることができなかった。往時は、当然この土塁の上にレンガ造りの堅固な高い城壁が築かれていて、侵略者たちから都市を護っていた。


土塁の到るところにレンガ片が散乱しているが、おそらくは当時のものだろう。

  Bアウトサイドから遠望した土塁と堀の跡

   
道らしきものは見あたらず、結局遺構に近づくのを断念。
   
 
遺構周辺に、現在建築中のニュータウン。
 

2008年1月、城壁跡を外側から見ようとして、パトゥー・マー(馬の門)跡を回り込んで堀端をバイクを走らせていると、巨大なニュータウンが建設中であった。数百戸、数千戸という同じ形をした膨大な数の住宅が建設中だが、住宅としてはかなり小さい。1戸の坪数は、10坪にも満たないのではないかと思えた。まさにうさぎ小屋か、鳥小屋のような住まいだ。


壁塗り作業をしていた工事人に声をかけて聞いてみると、1戸の値段は35万バーッ(約105万円)とのことだった。安い車1台分にも至らない値段だ。内部を覗いてみると、1階部分にはトイレ兼シャワー室と台所があるだけだ。居住空間は2階になる。工事人に断って2階を見せてもらった。2部屋あるが、想像していた通りにかなり狭い。


「住まいとしてはちょっと狭すぎないか?」僕は、2階部分を見たあと工事人らに言った。壁塗り作業をしていたのは男性2名に女性2名のグループで、全員が40歳代の中年の男女だ。僕の問いを受けて、「安いんだから仕方ないさ」と足場の上に乗っていた男性が言った。そのあと仕事の手を休め、「あの住宅を見てみろ!」と彼は、田園の向こう側に建っているまだ新しい2階建ての住宅を指差した。


「あの家は150万バーッ近くすると思う。ここだと、あの値段の家が4軒買える計算になる。俺にもし150万バーッという大金があったなら、ここの住宅を4軒買う。そのほうが徳だ」と男は胸を張って言った。家族で住むのなら、こんなうさぎ小屋ではなく、充分な広さを持った家のほうが良いに決まっている。でも、そんなことは少しも態度に出さず、「なるほど」と僕は笑顔であいづちを打った。


そのあと、ここの住宅を4軒買って、妻の他にミヤ・ノーイ(直訳すると、小さい妻。つまり妾のこと)を3人住まわせたらという楽しい話題で盛り上がったが、いつまでも彼らの仕事の邪魔をしているわけにもいかない。日陰で休んだおかげですっかり汗も引いたことだし、彼らと別れて再びバイクを走らせることにした。アウトサイドから土塁と堀の遺構を確認したかったが、農地の中の道を見つけることができなかったし、工事中のニュータウン内の道があまりにも悪かったので、馬の門まで引き返してインサイドの道をたどることにした。



NEW
2009年の1月、パトゥー・マー(馬の門)周辺の工事中の城壁を見た後、巨大なニュータウンのその後が気になって行ってみると、すでに多くの入居者で賑わっているだろうという想像は見事に裏切られました。入居者の姿はまったくなく、建設中のままこの一角はゴーストタウンと化していました。やはり、このうさぎ小屋を35万バーッも出して購入する酔狂者はいなかったようです。


バイクを走らせてゴーストタウンの奥のほうまで見て回ったのですが、工事人の姿は1人として見あたらず、ある一角では浮浪者らしき連中が数名不法?に住み着いていました。長くここで生活しているらしく、住み着いている建物の入口にはトタンの侵入口が取り付けられている。どこから引いたのか電気の来ている建物もあって、離れたところから内部を覗くと、男がコンクリートの土間に寝そべってテレビを見ていました。小さな子供の姿があったということは、家族でここに住み着いている連中もいるということでしょう。この先、この建物群はどうなるのでしょうか?かなり、気になります。
  

 
この建物群が、遺跡となるのも近いのでは?
 
堂々と住みついています。

  C北側の土塁の遺構

 
土塁上に小屋が建っている。
 
 これは破壊された跡?もしかして、ここには門があったのでは?
   
 
このあたりの堀は、比較的に良好な状態で残っている。
 

僕は、日本の戦国期に築かれた砦跡や城跡を訪ねて回るのが大好きなので、土塁や堀跡などという遺構を目にすると自然と胸が高鳴ってきます。


右上の写真に、破壊された?土塁跡にタイ語で書かれた立て札が立てかけてあったが、「15世紀に築かれたランナータイ王国時代の貴重な城壁の遺構。ーむやみに遺跡を破壊すると罰せられますー」このように記入されているのではないかと、想像で書いてみました。
 

  D土塁のほとりに建つチェディー

   

土塁沿いに崩れかけたチェディーが残っていました。そのまわりは、ご覧のように粗末な建物が密集しているので、チェディーに近づくのは結構大変でした。昔、このあたりにワット(寺院)が建っていた名残りだと思います。チェディーの周囲はレンガの瓦礫だらけでしたが、このチェディーも何者かによって盗掘され、その無残な姿をさらしているのだと思います。 

  E破壊された土塁跡

   
土塁の断面。レンガを積み重ね、そのあとに
土を被せて築かれている。

故意に破壊された土塁。破壊された個所には細い通路が築かれていて、その向こう側には小さな民家が建っていました。 

  Fワット・ノーンラコーン

 
方形のチェディーなんて珍しい。描かれている模様
から判断して、ビルマ様式なのだろう。
 

この寺院も、前出のチェディー同様に土塁沿いに建っていました。ビルマ支配当時に築かれたらしく、本堂はランナータイ様式でしたが、チェディーは明らかにビルマ様式です。本堂の裏側には、写真のような簡素な僧侶の住居がいくつか建っている。僧の住居は、基本的に熱心な信者の寄付によって建てられる。


断って写真を撮らせてもらったあと、僧侶に向かっていくつかの質問をした。「あなたはここに住んでいるのですか?」「そうだ・・・・」と僧。「1人で?奥さんは?」と、バカな質問だと自覚しながら問うた。「妻帯なんて、とんでもない話だ!」と直立不動の僧から、予期していた通りの模範的な回答がもどってきた。


タイ仏教の戒律は実に厳しい。僧となった者は虫一匹殺すことも許されず、もちろん女性に触れることも許されていない。また、自分が食べるために田畑を耕すことも禁じられているのだ。犯すと、もっとも厳しく罰せられるのが、殺生と性的行為なのだと聞いている。僕は、更にバカげた質問を繰り返した。「タバコは?」「とんでもない・・・・!」と中年の僧はいくぶん激高した口調で言った。「お酒は飲むのですか?」「そんなことをしたら、即座に地獄に落ちてしまう」


「それでは、楽しみは何もないのですか?」と僕は言った。「そんなことに喜びを求めなくても、他に喜びを求める方法はいくらでもある。私の場合は、仏と共にあることが最高の喜びだ!」「でも、隠れて少しぐらいお酒を飲むことはあるでしょう。少しぐらいなら、仏も許してくれると思うのですが・・・・?」すると僧は、僕との意味のない会話を早く終わらせたいと思ったのか、目を閉じ両手を合わせて言った。「口にするのは、1日1度の食事だけだ!」「えっ、1日、たったの1食?」「そうだ・・・・。それだけで充分だ!」これには驚いてしまった。知らなかったのだ。タイの修行僧が、そこまで厳しい生き方をしていることを・・・・。
 

   

前出の僧に礼を言って別れたあと、寺院内をぶらついていると、遠くから僕のほうをじっと見ている僧の姿が目についた。近寄って声をかけたが、見ての通りの相当に寒がりの僧だ。この国でもっとも涼しい?(寒い?)季節を迎えていたが、ここまで寒がりの修行僧もめずらしい。「ナーウ・マイ?(寒いですか)」と、失礼にも笑いながら問うたが、「ナーウ(寒い)」とジェスチャーまじりで答えてくれた。


この僧とは1時間ほど会話を続けた。会話の切れ目がなく、「そろそろ帰ります」と言えなかったのだ。この日は半日を費やして土塁のまわりをバイクで走り回っていたので、この寺院を訪れたのはかなり遅い時刻だった。日が翳り始めたので引き上げようとすると、本当に残念そうな表情をしていた。


ガイドブックには、タイの僧侶は尊い存在であり尊敬の対象であるから、むやみに声をかけてはいけない、写真を撮ってはいけない、特に女性は偶然であっても僧の身体に触れてはいけない、などと書いてあったが、僧たちも我々のような異国の旅行者とのコミュニケーションを積極的に求めているということを今回初めて知りました。この次の旅行からは彼らを僧侶として尊敬しながらも、別の世界の存在だと突き放さずに、もっと親しく接してみようと考えています。


ところで寒がりの僧のことをもう一言述べると、離れたところから見た印象よりもずっと若く、眼鏡の奥の目は澄んだ優しい光を放っていました。カメラを向ける前には、もちろん1言断って撮らせてもらった。
 

  G美しく保存された堀の跡

   
背後の白い建物は、最近建ったアパートです。

堀は昔の人の生活に役に立ったからでしょうか(たとえば、水浴び洗濯や魚取り)、極めて良好な状態で残っていましたが、土塁のほうは邪魔なだけで土地の人の生活にまったく寄与しなかったせいか、このあたりでは完全に破壊されていました。 


  郊外の観光地

    キューロム自然公園
  

   

ダム湖周辺の自然公園です。まるで水上家屋のような舟が10艘余りダム湖に浮かんでいるが、ここでは往復40キロ、約6時間の渓流遊びが楽しめるのだ。舟内の床一面にゴザが敷かれていて、座ったり、寝転んだりしてリラックスできるようになっている。壁面は景色を十二分に楽しめるように吹き抜けになっていて、水上家屋のように屋根は萱草やトタンで覆っている。もちろん、トイレもちゃんと付いている。


親しい仲間を誘い合っての参加が多いみたいで、最高50名までは乗船できるらしい。料金は10名乗っても50名乗っても同額の2000バーッ(6000円)。この金額は、交渉すればもっと安くなるようです。舟内での食事は頼めば作ってくれるが、飲み物、食べ物の持ち込みは自由。船頭さんに聞いてみると、食料などを持ち込んで乗り込むグループのほうが断然多いとのことでした。
 

   

    タイ象保護センター
  

 
手前の女性に抱っこされているのは、1歳半ぐらいの
うちの長男坊。抱っこしているのは妻の姉。
 
タイ象保護センターでのショーの様子。

ランパーン市の郊外にあるタイ象保護センターの開園時間は、8:00〜15:30。
入場料は、大人50バーッ(150円)。ショーは10:00と11:00の1日2回。
ただし、土・日曜日は午後の13:30にも行われるため、3回になります。


場所は、ランパーン市内からかなり遠い。38キロほど離れていて、バスターミナルからチェンマイ行きのバスに乗って30分余りかかります。それに、バスを降りて15分から20分ほど歩かなければいけないので、もし行かれる場合はソンテオをチャーターして行ったほうが良いと思います。ソンテオをチャーターする場合は、距離的に言って片道500バーッ(1500円)から700バーッほどかかると思います(僕はランパーンでは1度もソンテオを利用したことがないため、このような不確かな言い方しかできない)。この金額は1台をチャーターする値段であり、何名利用しても金額は変わりません。


10数頭の象が、伐採された木材を運搬する様子をショーとして見せている。最後に、鼻で絵筆を持ってキャンバスに絵を描き、それを観光客に売っていました。象の背中に乗って、30分から1時間ほど、ジャングルというか森林の中を周遊することもできる。僕はここでは乗ったことがないが、北部タイ地方に長期滞在していた頃にチェンライで1度だけ体験したことがあります。そのときには、2階から下を見下ろしているような高さを感じたものです。


ここには象の病院、そして象使いの学校も併設されているそうです。
 




                                                           2009年1月11日 更新


 

   

子供は本当はチェンマイ動物園にパンダを観に行きたがっていた。パンダに子供が生まれたので、どうしても行きたかったらしいのだ。しかし、チェンマイはスーア・シーデン(赤シャツグループ)が、連日過激なデモ繰り広げているとテレビや新聞で報道されていた。バンコクでは銃撃戦になり、毎日のように死者が出ていた。そんな危険な場所に子供たちを連れて行くわけにはいかないので、なだめて納得してもらい、パンダ見物の代わりにエレファント・キャンプに出かけることになったのだ。


行った日は、ソンクラーン(水かけ祭り)が終わったばかりの6月18日のこと。入口から300メートルほどのところに駐車場があり、そこから中型トラックを改造した乗り物で森の中を通ってショーの行なわれる広場に向かう。1回目のショーの始まるのは10時から。広場は池のほとりに位置していて、我々がバスを降りると16頭の象が行進して広場に向かっているところであった。

   

象の大きな体には、模様や文字が白くペイントがされている、ショーが始まった。最初の頃は象の本来の仕事である大木を引っ張ったりしていたが、そのうちハーモニカを吹いたり太鼓を叩いたりと楽器の演奏を始めた。そのあと、鼻で絵筆を握ってキャンバスに絵を描きだした。象の描いた3枚の絵はセリがかけられ、その中の1枚を家族連れの白人男性が千バーッ(約3000円)で購入していた。最後は、特別サイズの巨大なボールでサッカーをして、1時間弱のショーは終わった。




                                                              2010年6月16日 更新