タイの農村

 
米の刈り入れの終わったばかりの田んぼと農村風景。
 

 

このコーナーのタイトルは「タイの農村」となっているが、僕がタイの農村に関していくらか知識があるのは、通算して6ヵ月余り滞在した妻の実家のある村だけです。だから、そこで実際に体験するか見聞きしたことを書くことにします。

結婚を約束したアンと共に、初めてランパーン県の彼女の田舎を訪ねたのが1997年の5月。その翌月の6月にはこの村で結婚式を挙げたので、式のわずか1ヵ月前のことである。彼女の案内によって、チェンマイでレンタルした日本製のジープに乗って村に入った。僕たちが訪ねた時には、まるで僕たちの結婚に合わせるように村の中央を走る道路が舗装工事されていた。補修ではなく、土の道をアスファルトにする初めての舗装であった。小川に架かる橋も、車の重みで崩れてしまいそうな危なっかしい木造の橋から、コンクリートの橋に道路の舗装に合わせて架け替えられていた。

 
長女が3歳ぐらいの時。妻の両親の家にて。
妻の実家のある村は、パヤオ県との県境にある山間の村。ナショナルパークのはずれに位置しているとかで、景色は極めて美しいが寒村の趣を濃厚に漂わせた過疎の村で、やっと電気が通ったのも8年前とのことでした。

8年前とは妻が19歳の時です。妻はその頃にはすでに村を離れて都会暮らしをしていたが、彼女が子供の頃には当然村には電気は来ていなく、ランプ生活をしていたことになります。
 

現在でも村には水道は来ていないので、どこの農家でも井戸水を使用し、飲料水は雨水を大きな水瓶に蓄えて利用しています。雨水は、ほとんどの農家が建物の屋根に落ちたのを樋で水瓶に引く方法を取って蓄えています。それから、食事の煮炊きにはプロパンガスを使用するか、昔ながらのマキや炭を利用しています。 

 
村ではこのような水瓶に雨水を蓄え、飲料水として使用している。
 
鶏は、高床式住居の床下で飼われている。

妻の村の戸数は120戸ほど。チェンマイからパヤオに向かう途中の山間部に、隠れ里のような村に向かう細い道が伸びていて、低い山並みの連なる谷間に3つの村が並んで存在しています。国道に近いほうから村の名前を記すと、ラオ村、ペッヌア村、サラピーン村となり、サラピーン村のその先には道はなく、山肌が迫って行き止まりとなっている。

アンの生まれ育った村は、3つの村の中間のペッヌア村。妻は8人兄弟の6番目で、僕がアンと共に村を訪ねた時には、このペッヌア村で両親の他に4人の兄弟が暮らしていた。その他の3名の兄弟のうち2名は近在の村に嫁入りしたり、養子に行ったりしていて、アンのすぐ下の妹のティムだけが100キロほど離れたチェンマイ市内で美容師として働いていた。

アンの母親はいたって健康だが、60歳そこそこの父親は若い頃からの喫煙の害で胸を病んでいて、僕たちの結婚当時ほとんど寝たきりの生活を送っていた。たまに体調の良い時には通りの見える場所に腰を下ろし、半日くらい飽きずに外を眺めていたが、妻のアンに聞くと友人が訪ねて来ないかと待っていたのだという。

結婚式

先ほども述べたように、アンの村を初めて訪れた翌月の6月26日に彼女の実家のある村で結婚式を挙げた。

タイでは結婚する時に、男性が娶る女性の両親に結納金を渡すのは不可欠であり、僕が妻の両親に渡した結納金は5万バーツ(この当時のレートで計算すると、約20万円)。その他に、金のネックレスを妻に贈った。この金額は、村の男が妻を娶る場合に比較して、いくらか多いとのことでした(妻の談)。
 
 

この5万バーッで、アンの両親は僕たちの結婚式を挙げてくれました。だから、結納金と妻にプレゼントしたネックレス以外、僕の出費はなかったことになります。それから、僕の渡した結納金は、ほとんど妻の両親の手元に残らなかったのではないだろうかと思っています。この国では、娘の結婚を自分たちの豊かさのために利用する親もいるみたいですが、アンの両親は真っ正直に娘の幸せだけを考えてくれていたのです。

式の2日前に僕たち(僕の両親も結婚式に参加)は村に到着しました。式の前日の朝から妻の実家の敷地内にテントが張られ、テーブルや椅子が並べられ、そして村所有の大鍋や大釜などの食器類が村人によって運ばれ、妻の実家の台所では近所の奥さん連中がたくさん集まって料理を作っていました。
 

 
 ラオ村の寺院。
式の当日の早朝に、隣のラオ村の寺院に袈裟やお金や料理などのタンブン(お布施)の品物を持ってアンと共に行き、僧侶から結婚の祝福を受けました。

アンの実家のある村ではなく、隣村のラオ村の寺院に結婚の報告に行ったわけは、その頃ペッヌア村の寺院には、たまたま住職が在籍していなかったからです。
 

そのあと、車で25キロほど離れたワンヌアの町まで行き、美容院でアンの衣装の着付けと髪のセットを行ない、10時頃に村に戻りついてから式が始まりました。

戸数100余のペッヌア村の住人だけでなく、隣接するサラピーン村やラオ村の連中も祝いに集まってくれた。結婚式は、2日間に渡って賑やかに行なわれ、翌日の夕方にやっと終了しました。

 
結婚式の前に、美容院で髪をセットしてもらっている妻。

近所の子供たちもたくさん集まっていた。僕はその子供らを1列に並べ、1人1人におこづかいとして10バーッ(この頃には、まだ10バーッ札が流通していた)ずつを与えていたのだが、すぐに財布の中の小銭は尽きてしまった。急いでアンを呼んで両替えを頼むと、病気で痩せ細っている妻の父親が笑顔で10バーッ札や20バーッ札などの小銭をどっさりと渡してくれた。その時は礼を言って受け取ったのだが、あとで考えると、そのお金は式に出席した村人の祝い金だったようなのだ。 

 
村のメイン通り。
 
村の売店。

暑季の終わりのこの頃は暑い日が続いていたが、式に参加してくれた村の連中は陽気で賑やかで、そして元気そのものでした。祝い酒を飲んでほろ酔い気分の連中が、カセットの賑やかな音楽に合わせて両手を頭上で振る阿波踊りのような踊りを楽しそうにいつまでも踊り続けていました。日が落ちるといくらか涼しくなった。妻が指差す方向に目をやると、近くの小川のほとりの木々が幻想的に輝いていた。まるで、クリスマスツリーのように瞬いているのだ。過去に1度も目にしたことのない不思議な光景に目を丸くしていると、妻の妹のテェムが、木々に無数のホタルがたかっているのだと教えてくれた。

結婚式の数日後に、婚姻ビザ申請目的で日本大使館に行くためにバンコクに向かったが、それが僕たちの新婚旅行になった。結婚後は、日本とタイ両国の役場への婚姻届け提出のために極めて忙しい日々を送ることになり、妻のアンと共に日本で暮らせるようになったのは結婚式の半年後のことでした。
 

  村の電話事情

 
高床式の床下は涼しく寛げる空間。妻の姉の家にて。
結婚の1年3ヵ月後に長女が誕生した。妻は子供を身内のいるタイで産むと言い張り、妊娠8ヵ月目にランパーンの実家に帰ってしまった。その時は僕も同行したが、僕は仕事があったのですぐに帰国した。

帰国後、週2回ぐらいのペースで妻に電話をしていた。妻の村には電話回線が来ていないので、当然どの家にも電話はない。でも、電話回線が来ていないのに、なぜか村に1ヵ所だけ公衆電話があった。その電話は、運良く妻の実家の隣の売店前に設置されていたので、僕はこの公衆電話にかけていたのだ。
 

呼び出し音が鳴ると、売店の人か通りすがりの村人が受話器を取って妻に知らせてくれていたのだが、この電話が実に通じにくくて、5度かけてまともに通じたのは1度くらいでした。受話器の向こう側に呼び出し音が響くと、ほっとしたものである。でも、せっかく掛かったのにその時に限って妻がいなくて掛け直しなんてことになると、再び掛かるのは奇跡に近かった。タイではなく、まるで月か火星のようなとんでもない遠くに電話をしているような感覚が僕にはあった。

この電話が掛かりにくいということを妻は容易に信じてくれなくて、電話の回数が少な過ぎると叱られたものでした。だが、その後出産のあとに再び日本で暮らすようになって、母親に用事があって電話を掛けようとして掛からなくて、初めて僕の言葉が真実だったことに気づいたぐらいだ。
 

その後、2人目の子供(長男)が誕生と共に妻は実家の敷地内に家を建てて暮らすようになった。当然、電話がないと不便なので携帯を申し込むことになった。

しかし、普通の方法では受信できないような田舎なので、15メートルほどの高さの鉄パイプを建物の脇に立て、その先にアンテナを取り付けて受信するという方法を取ったのだ。

 
長男の1歳の誕生日。

パヤオの携帯会社と契約する時、もし受信できない場合には料金は工事費だけで良いということだったので、さっそく工事してもらったところ感度もよく、良好な状態で使用できるようになった。

ラオ村には、同じ方法で電話を設置した家が1軒あったが、妻の実家のあるペッヌア村では初めての電話設置となった。だから、近所の連中がひっきりなしに電話を借りに来るので、妻は電話使用料を取るようになった。こちらから掛ける場合には電話代の他に使用料として5バーッ(20円)を徴収し、電話が掛かってきた時も同様に1回に付き5バーッを貰うことになったのだ。

この商売(ほとんど儲けにならず、ボランティアの色彩の強い商売)は、2003年にランパーン市内に建てた新しい住宅に引っ越す直前まで続いた。現在でも、まだ村に電話回線は通っていないので携帯を使用するしかないのだが、高いアンテナを立てなくても普通の状態で受信できるようになり、村娘が村の通りをバイクで走りながら、片手で携帯をしている姿をごく普通に見かけるようになった。
  

  村での暮らし

 
  村の入口を示す標識と小屋。あの小屋の中で車を待つ。
    向こう側に見える道は国道。
先ほども書いたように、第二子出産のために妻はランパーンの実家に戻り、無事に長男を出産したあとも日本に戻って来ることなく2人の子供と共に田舎で生活を始めたので、僕が年に2、3回定期的に妻子の元に通うようになった。ランパーン市内に家を建てて住む以前のことである。

関空発の便でバンコクに到着すると、国内便に乗り換えてチェンマイに向かい、チェンマイのアーケードバスターミナルからパヤオ行きのバスに乗り込む。約2時間のバスの旅の後、村に向かう道の分岐点に差しかかるとバスを降りた。
 

この分岐点から妻の住んでいる村までの距離は約5キロ。重いバックを持って歩ける距離ではないため、ここで村に向かう車を待つことになるのだが、車が通らないと1時間でも2時間でも待つことになる。

ソンテオとかいった有料の乗り物はまったく走っていないため、村人所有の車に好意で乗せてもらうのだ。最近では車を所有している農家が増えたため、待っていると30分に1台ぐらいは楽に通行しているみたいだが、以前(妻と結婚した頃)は、村人で車を所有しているのはごくまれで、1度などは上の写真の小屋の中で2時間余り待ち続けたことがあった。
 
 
村に向かう道。

ペッヌア村に滞在している時には、ランパーン市内に向かうよりも隣接した県の県庁所在地であるパヤオ市に出たほうがずっと近いため、買物などの用事があるとパヤオの町に向かっていた。距離は、村からパヤオの町まで50キロほどに較べ、ランパーンまでは120キロ余りの道のりがあった。

しかし、パヤオ市内に出るにはかなり険しい山越えをしなければならない。この道の途中には相当に落差のある滝があって、村に滞在している時には暑さしのぎに子供らや妻の甥や姪たちを連れて頻繁に出かけていました。滝の水量は乾季時でも結構豊かで、落下する水音は2、3キロ先からでもよく聞こえていた。滝のほとりに物売りの小屋が4、5軒建っていて、水遊びの後にここで食事もできるし、一緒に行った妻の親族らとウィスキーやビールを飲むこともでき、疲れたら小屋の板の間にごろりと横になることも可能でした。

昔、この滝の滝壺の周囲に小集落があったらしいが、1990年頃の深夜に滝の上部の岩が崩れ落ち、集落は一瞬にして全滅してしまったそうです。当然、多くの犠牲者が出た。その時の岩崩れによって滝壺はすっかり埋まってしまったが、滝壺の近くにはその時に破壊された建物の残骸が今でも数軒残っていて、妻の言によれば、その時の犠牲者の霊が今でも滝の周辺をさまよっているそうです。

買物などでパヤオ市内に向かうために山越えをしていると、山頂付近ではたびたび霧が湧き、麓ではまったく降っていないのに山頂あたりではよく雨にたたられます。山道は険しく、かなり標高のある山であることがわかります。道の途中に、「鹿に注意!」という標識がところどころに見られ、山頂付近の展望台から見下ろすと、木々の間から青々と水を湛えた美しいパヤオ湖を望むことができます。
 

 
テェムと娘のメイちゃん。真ん中の男の子は
わが家の長男のエッちゃん。
妻の実家の敷地は1ライ(約500坪)あるので、この敷地内に妻の両親の家(アンの父親は2000年に亡くなったので、今は母親とアンの末の弟が住んでいる)と、妻の兄(8人兄弟の長男)の家と、妹のテェムの家と、結婚1年後に建てた僕たちの家の計4軒が建っている。

妻のすぐ下の妹のテェムは、チェンマイ市内で美容院兼理髪店を経営していたが、客として訪れた中国系の男性と親しくなり、彼女の妊娠を契機に一緒に村に戻って来た。 

やがて女の子が誕生すると、テェムは実家の敷地内に小さな理髪店を開業し、この周辺の村で唯一の散髪屋さんとして頑張っている。最初は自宅の高床式の床下に店を築いていたが、2008年の正月に妻子と共に戻った時には、店は通りに面した場所に移動していた。その場所には、20メートルほどに成長した椰子の大木が5、6本立っていて遠くからでも望むことができたのだが、店舗を建てるために椰子の木はすべて切り取られていた。

現在、働き者のテェムの夫は台湾に出稼ぎに行っている。村の者が1度海外に出稼ぎに向かうと、2年くらい戻って来ないらしいが、テェムの夫もそのぐらいの期間向こうに行っているのだろうと思う。
 

 
赤い衣装を着ているのが妻の妹のテェム。村祭りにて。
 
村の理髪店。

至ってシッカリ者の妻のアンは、結婚式の時に僕が渡した結納金の1部を父親から借金し、自分の貯金と合わせて村の土地を購入していたが、その1年余り後に長女出産のために村に戻った時に、将来のことを考慮して再び村の土地を買うことに精力を傾けだした。

そして、結婚2年目頃までに彼女が購入した土地は約100ライ。坪に直すと、約5万坪という広大な土地を所有することになった。しかし、そのほとんどが車の乗り入れができない、牛車で行くか徒歩で行くしかない不便極まりない土地です。
 

 
牛車、どんな悪路でも平気です。

一度、妻の購入した5000坪(10ライ)のトウモロコシ畑を斜めに歩いてみたことがありますが、あまりにも広過ぎて、途中で歩くのに疲れて引き返したことがあります。5万坪の土地の中には、そのような行くのも困難な場所もあれば、集落内の住宅に適した土地のあるし、道の近くの水利の良い米作りに適した農地もあります。

5万坪の土地と言えばたいそうに聞こえるが、購入費は日本円で150万円ほどの金額だったと思います。先ほどの、10ライのトウモロコシ畑の値段は10万円以下でした。土地の値段は下がることがないので、妻は利殖のために購入したようです。現在、それらの土地は、妻の兄弟が話し合って管理している。すべて兄弟に無料で貸しているのですが、毎年、その土地に掛かる税金だけは兄弟に負担してもらっています。

結婚式の直後に買った村の中心の通りのほとりの300坪ほどの土地は、いつも涼しい風が吹き渡りロケーションも最高だったため、そこにいずれ新しく家を建てることを考えていたのだが、妻の姉から売ってくれと再三申し出があり、その頃にはランパーン市内に住んでいたこともあって結局売ってしまった。今、姉夫婦がそこに家を建てて住んでいる。
 

 

        田舎のわが家

 
2008年1月写す。

   

上の写真はペッヌア村のわが家です。1998年、長女の誕生前から建築を始め、9月6日の誕生後に完成しました。寝室は2部屋しかなく、子供が走り回って遊べるようにと、居間の部分を思い切り広く造っている。居間がどのぐらい広いかと言えば、妻の父親の葬式の時に、わが家の居間やベランダで100名ほどの人々がいくつかの輪を作って食事を摂ったのだが、まだいくらか余裕がありました。

この家で、わが家の2人の子供が育った。でも、2003年にランパーン市内に新しく家を建ててそちらのほうに引っ越したので、この5年間ほど年に2、3度宿泊するだけで、ほとんど空家状態です。右下の写真のベランダは、僕のもっともお気に入りの場所。2002年頃にはまだ喫煙の習慣があったので、家にいる時タバコを吸う場所はいつもこのベランダでした。
 

村人が家を建てる場合には、特別資金力のある人は別にして、普通は3年計画で建てているみたいです。1年目は高床式の支柱の部分を建て、雨季が終わって稲やトウモロコシの収穫の後、その収入で2年目に床から上の部分を造り屋根を取り付けるのだ。

そして、3年目には内装や台所、トイレなどを作り終えて工事は完成するのです。でも、中には農業の不作などで資金繰りがうまくいかず、支柱だけ完成して何年も雨ざらしになっていたり、あるいはもう少し進んで床を張り屋根を取り付けたのに、数年間もそのままになっているのを村の中でよく目にする。
 
 
建築2年目の住宅。来年には完成すると思う・・・・。

 
 家の建築中は、このような仮小屋を建てて暮らすことになる。
  タートン周辺の民家にて。1995年頃。
 
建築中のバーンの両親の新しい住まい。
  2008年4月に無事完成。

家の建築中には、他に住む家のない場合には仮小屋を建てて、そこに家族で住むことになります。でも、建築中の家の屋根を取り付けたあと外壁がなくても、簡単にベニヤ板を貼り付けたりカーテンなどで遮断して、平然とその内部で生活をしている家族もいる。

  新築祝い

 
ランパーンの新居の新築祝い。
 
妻の田舎の連中や、近所の人がたくさん集まってくれた。

家が完成すると、村人に祝ってもらうことになる。上の写真はランパーン市内のわが家の新築祝いの時のものだが、村での新築祝いにも村の僧侶や、その他にも村のモーピー(祈祷師)がやって来て結構盛大に行なわれる。結婚式、新築祝い、そしてこのあとに紹介する葬式の3つが、村の3大行事だと僕は思っている。

この3つの行事のうちのどれかが行なわれる時には、村社会の素晴らしさで、必ず村人連中がこぞって手助けに集まってくれます。そして、このような日には、村の男らにとって妻子や親族に遠慮することなく酒を飲める時でもあるのだ。
 

  モーピー(祈祷師)

 
左の男性がペッヌア村のモーピー。
 

タイの地方では、たいていの村に「モーピー」という存在がいると聞いています。モーは医者で、ピーは精霊だから、モーピーとは「精霊の医者」という意味になる。モーピーは普段は農業を生業としていて、病人が出たり、旅行や祝い事で吉凶を占う必要のある時などで、村人に呼ばれた時だけ出かけるのである。モーピーとしての正装はないみたいで、用事があって呼ぶと、村はずれの粗末な民家からいつも普段着や野良着姿でやって来ます。

モーピーとしての衣装はないみたいだが、びっしりと呪文らしきものの書かれたノートは必ず持参して、そのノートを読みながら有り難い呪文を唱えてくれるのだ。わが家も子供の具合の悪い時や、何かに怯えて泣き止まない時などに、何度か来てもらった。その他、家を建てる時や種を蒔く日など、村人は彼の元に相談に行って、日取りを決めてもらうようなのだ。僕たちの結婚式の日取りを決める時も、アンの父親が彼に頼んで良い日を占ってもらって決めたと聞いている。そのせいなのだろうか、僕たち夫婦は結婚11年目を過ぎた今でもいたって仲が良い。

  村長選挙

 
ワンヌア郡の役人から、正式に村長の任命を受ける。
左から2人目がバーンの父親。
 
新村長夫婦(自宅前にて)

昨年度(2008年)までの村長の任期は4年だったが、来年から60歳定年制が導入され、それに村長報酬も倍額の月額8000バーッ(24000円)となったため、今回の村長選挙では候補者が乱立するという盛り上がりとなった。自薦、他薦で、4名の候補者が名乗りを上げた。その中には妻の義兄の名前もあった。この義兄とは、ランパーン病院に勤めているバーンの父親のことである。

バーンの父親はタイ語の読み書きがほとんどできず、若い頃は酒好きで喧嘩っぱやく、2人の娘がまだ小さい時に喧嘩相手の家にピストルを持って乗り込み、相手に怪我を負わせて1年間の刑務所生活を送ったという乱暴者であった。今は酒も喧嘩もやめて真面目に暮らしているが、いくらなんで村長は無理だろうと身内の者全員が思っていた。だが投票になると、あれよあれよという間に勝ち進み、最後の決戦投票も160票対72票の大差で勝ってしまった。

村長就任式のときに郡役所のお偉いさんが繰り返し言っていたが、貧しい中で2人の娘を大学に進ませたことが勝利に結びついた大きな要因となったようなのだ。村長として、何か画期的なことをやってくれそうな頼りがいのある存在として、村人には写ったのだろうか。
 

 
新築なった住宅。
 
村長就任の演説も立派なものであった。

今年は、バーンの一家にとって実に良い年であった。報告が遅れたが、バーンは学生時代からの友人であったジェムという名前の男性と6月に結婚式を挙げ、早くも新しい生命を胎内に宿している。バーンの妹のベェも無事チェンマイの大学を卒業することができ、現在は結婚を約束した恋人までいる。12月27日の村長就任式の日に村を訪れた時にベェの恋人のボーイに初めて会ったのだが、金持ちの子息と聞いている通りの家柄の良さを感じさせる好青年で、数年前にNHKの大河ドラマで宮本武蔵を演じ、共演した米倉涼子と浮名を流した市川海老蔵によく似た美男子であった。

バーンの結婚相手のジェムは、民芸品を製造、販売する会社を経営し、ベェの恋人のボーイは、タイ航空の客室乗務員として国際便に乗っている。
 

 
左から、バーン、母親、父親、ベエ。住まいの前に立てられた
  背後の看板には、村長の家と書かれている。
正に幸運続きのバーンの家族であるが、父親の村長就任に先立って一言釘を差したそうだ。それは何かと言えば、バーンの父親が村長という役職に就いて、もしミヤノーイ(つまり妾)を作るようなことがあれば家も車も与えず、体一つで追い出すという熾烈なものであった。家族の目の前で、一筆書かされたそうなのだ。

ちなみにバーンの父親は今年51歳なので、村長の任期は9年間。現在、村長の仕事に張り切って取り掛かると共に、タイ語の読み書きの勉強のほうも50の手習いで頑張っているそうである。